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(25)またまたヘアピン 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(26)25地点の上部側 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(27)地点
この先でまたヘアピン。上に見えるはこれから登る道路
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(28)地点。27地点の上部側
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(29)地点から峠方面
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(30)地点から峠方面 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(31)大曲の大崩落地点を望む 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(32)大曲の大崩落箇所 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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何事もなかったかのように振る舞う道路 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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新しい落石防護柵
見ても分かるとおり、ここの崩落箇所は大規模である。始めてきたときはここも崩落していた。規模は剥がれたコンクリートの量を考えれば、ある程度予想付く。 もちろん、崩落していた土砂は道路に横たわっていた。
しかしその上を轍があったので、私は進入したが...床下をかすかにこすっているのが分かってある意味恐ろしかった。ほとんどの人はここで引き返していたようである。しかしながら始めてきた日にここで10台程度の対向車がいたのは驚きであった。 今も生々しくその傷跡を見せている。コンクリート吹きつけのほとんどが消えてしまったのではないだろうか。草が生えているが、これは復旧時にわざと生やした草のようである。すなわち崩落を防止するために草の種をまいたようだ。さすがに廃道同然の道であって、予算が付かないのだろう。 使える物は使い、そして復旧している。 最初に来たときにはここに杭が打ってあった。「10災 査定 第○○○号 延長○○○米」 これの意味する物は何であろうか? 実はその荒れぶりに驚くと同時にかすかな希望を持っていたのだ。
しかしそれは現実となっていた。この峠道は生きている。
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(32)地点から(31)地点を見下ろす 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(33)地点の道路 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(34)
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(35)落ちそうな道路 〓画像をクリックすると大きくなります〓
ここは道路が落ちそうになっていたところ。画像では分かり難いですが、車はかなり斜めになります(^^;。始めてくるときはちょっぴり恐い♪。 |
(36)なぜか一部ダート 〓画像をクリックすると大きくなります〓
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(37)
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すっかり張りを無くしたワイヤーロープ
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ここまで登ってきてこの道はやはり生きている道だと実感した。特に始めてきたときの印象が強いためだ。この道は生きているが、その管理状況はとても一般の通行を意識した物とはとうてい思えない。やはり送電線の巡視、林業のために通行を確保させている作業道なのではないだろうか。
カーブミラーがあっても現役引退したものもある。また、ガードロープがあるのだが、それものび放題である。
でも場所によっては手入れをされている。 |
2000年7月。このときのチャレンジはここであっけなく退散することになった。それは左の画像の通り、深い霧が発生してきたのだ。いくら手入れされている様子がうかがえるとはいえ、この先何があるか分からない不安が残っているのは当然だ。「通行止め」と書かれている道路である。霧の先で道が落ちていても不可思議ではない。
やはり安全第一である。ここで引き返すことに決めた。
その後、結局大峠へは到達できずじまいだ。
そして、11月。このコンテンツをやっとのことで作ろうと重い腰を上げたときに、画像の整理をしていたら大峠が、すごく気になった。もし今回を逃せば来年の夏まで行くことはできない。
これを作り始めた翌日。帰宅したら速攻、車を出し進路は大峠にとっていた。
翌々日の朝6:30か7:00ごろ。私は大峠隧道の前に立っていた。そこに現れたのは幻でも何でも無い。たしかに威厳漂う、大峠隧道だった。隧道を越える。なかはひんやりとした風が通り抜ける。誰もここにはいないし、こない。オレ一人の独壇場だ。ゆっくり車を進め、まぶしい朝の光が漏れる山形側坑口をめざした。
目の前に現れたのは、透き通るような青空と、そして眼下に広がる山並みのパノラマだった....
3度目にして到達できたトンネルはとても感慨深い物があった。思えば7月のある日のこと、自転車でこの峠に到達しようと勇んでいたときのことを思い出した。普段全く運動なんてすることもない奴がいきなり峠に登ろうとしても、それは無理という物である。 てっきり山形側は完全に廃道だったと思っていた。したがって山形側は旧道が分岐してからすぐ自転車でのアプローチに変えた。今考えると、とんでもないことをしたんだなぁとじぶんながらに思う。それなりの標高差がある、大猿倉沢橋まで自転車で行ったんだと。 普段からサイクリストとして活躍していれば別であるが。とにかく普段から運動は全くしない。途中で息が切れた。もういいや引き返そうと何度も思った。大猿倉沢橋まで着いたときの、感動は忘れない。一つの区切りとして。 そこから見る大峠はうんと遠かった(と感じた。直線距離的には今走ってきた距離と同じぐらいなのだが)。簡単には人を近づけない。そう思った。 しかもそこからはゲートで塞がれていて完全に廃道と訴えていた。引き返すか...。いやでも...。自問自答を続ける。もう売り切れに近い力を振り絞ってさらに自転車を進める。道は大きく荒れている。でも自転車なら通れなくはない。かつての唯一の幹線だったとは思えない。倒木があり、落石があり...そして...
道が広くなったところの片隅に、夏草に埋もれそうになりながらもその存在を強く訴えていた石碑。山形県知事による石碑だ。これだこれを見たかった。なんとしても記録に残しておきたかった...
しかし夏草に覆われ近づくことが出来ない。結局帰ってきてみたら県知事の名前が判別することは出来なかった。
昭和58年頃に発行された林道ツーリングの本に紹介されていた大峠。そこのガイドマップには石碑の存在が書かれている。
タイトルにも使わせていただいた。この峠道のあまりにも強烈な存在感にさらに磨きをかけるこの言葉。
この峠道の存在を記憶の中から消したくはない。だから馬鹿みたいに画像を多くした。重いし、見たくても時間がかかるし途中で飽きてしまうかも知れない。そんな不安なんかも問題にならないほど、記録しておきたいという思いが強い。だが別に自分にとって思い出深い峠と言うわけではない。生まれてから一度も通ることなく、その存在に興味を持つ頃には既に通れなくなっていたからだ。記念と言えば最初に行った、旧道探訪になるかも知れない。それだけのことだ。でも僕の中での「大峠」の存在は格別な物としてある....
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