武田信玄や織田信長も兵を率いて通った由緒ある道。中道往還の難所。右左口峠(うばぐちとうげ)である。ここはもともと徒歩の峠しかなかった。そこに地元の要望により県道甲府精進湖線の開設が行われた。それがこの道路である。ここは自衛隊によって開削された道路でもある。中道町側には記念碑が建つ。
徒歩の峠には「強清水」というのがあったそうだ。今は右左口隧道の影響でかれてしまったらしい。昔のこと、どちらの住人かは忘れてしまったが、ここを甲府の町に商売で往来していた人がいた。ある日、商売があまりうまくいかずに何も持たずに帰った。しかしそれでは家にいる爺さんに悪いので途中で清水を汲んで帰った。そして悪く思いながらも爺さんに差し出すと、「これはうまい酒だ」ととても喜んで呑んだ。もちろん酒など入っていない、おかしいと思い飲んでみても、間違いなくただの清水だった。だが爺さんはうまい酒だと喜んで飲んだ。子供だと清水。これが「子は清水」となり「強清水」となったそうだ。 と、オレの頭の片隅にはあるのだけど・・・。はたしてどうだったかな。まぁ後学程度に、、、。
自衛隊の開削道路であることは人から聞いたことあるが、その確信はつかめないまま、何回もこの峠道に足を運んだ。しかし今回の調査(平成13年元旦)で、その確証を得ることが出来た。峠までも行くことができたしなかなか十分な探索となった。
ここは一時期、国道に指定されていたようである。右左口隧道がかつては有料道路だったのだ。もちろんただの旧道行こうなんて行くと泣きますけど。そして今は県道もとい険道。甲府精進湖線。県道番号は113号線だったかな。
この峠道も早くから気になっていた峠である。というかおそらく私の初期の道活動においてはずすにはずせないものだ。
一番最初に行ったのは免許を取って間もない98年7月ごろ。まだそのときは親戚の持ち物であったラルゴ(01年3月のR418探訪で活躍)の助手席にいた。それは車が走る道とは思えず、這々の体で逃げ帰ってきたのだ。このときは上九一色村側から登った。
2回目は98年9月頃。まだターセルの先代、うちが唯一新車で買った車齢10年ぐらいのスズキフロンテと言う軽自動車。MT車。免許とってすぐの身にはなかなか厳しい車だった。今度は気になっていた反対側を見るべく、中道側から登った。しばらく舗装路なのに、舗装の真ん中にこぶし大の落岩が散財。とても車が走れる道ではない。それでも進んだ。そして未舗装路になってからもことこと進んだ。ある地点まで来たらちょっと坂が急。と思ったらその坂でスリップして登れない。若葉マークにはあまりに手厳しい。助走を付けて闇雲に進むと底を強打するだろうし。どうやっていこう、、、、。手に汗がわき出る。しかしバックしても、しばらく転回できないし、、、。 歩いて調査。坂の上に転回できるスペースを確認。しょうがない闇雲にクラッチつなげて勢いだけで突破しました。跳ね上がりましたけど、底はすらなかったようです。速攻退散。
3回目。98年10月頃。98年10月の頭にターセルを知り合いの自動車屋からただ同然でもらってくる(ちょっといろいろあるんです。おかげでその後もいろいろ悩まされました。ただいろいろ直した甲斐あって今はとても順調です。5万キロだったオドメーターも13万キロ突破。)。その処女ドライブでもないけど2回目ぐらいの長距離ドライブ。その行程に右左口峠も入れた。あの坂を越えられれば、なんとかなるはず。行ってみました。たしかになんとかなりましたが、そこから700mぐらい進んだ所で、またまた車の走る道ではなくなっていました。あれはたとえようがないです。どんなに酷道好きでも、あの風景を見た途端に歩を止めます。間違いなく。ジムニーに乗っていても行かないでしょうね、、、。あえなく退散。
4回目。年が明けてすぐいつごろかな、とりあえず行ってみる。中道側通行止め。上九一色村側も崩落していて通れない。でも通行止めなんて出ていない。そういうところなんです。ここは。
5回目。通行止め。
6回目。通れました。99年5月頃になるのかな。春に行きました。恐ろしいほど不気味なほど整備されていて。車が通る道はこういうのを言うんだよなぁって実感しました。
長くなったので終わり(爆)。けっこう早くに通れたのですね。記憶なんて当てにならないなぁ、、、。このころはニフティのボードに書きまくっていたのでそれの過去ログをあさってみました。
そろそろ写真を見ていきましょうね。なお原則として拡大画像にリンクされています。
大峠とおなじくとにかく画像を多くした。そして出来る限り文章の記述をさけた。これは画像から得る情報を高めるねらいがある。正直申せば、あまりに巨大なプロジェクトにしたために、作る前から気負けをしてしまったと言うこともある。そこで詳述はさける。画像を多く、また大きめ画像へのリンクも出来る限り多くすることで対処した。
略図は見難いと言うのが、自分でも思う感想である。しかし、面倒くさがりやで、想像力の弱い小生にとって、これ以上の画像を短期間中に提供する力が無いのである。見難いのは承知の上であるが何卒ご了承頂ければ幸いと願うところである。
○に数字が書かれている。それは、おおまかに○の地点を写した画像が数字であることを示している。逆に画像の下には「(11)」と言うような感じで数字が書かれていると思う。それは、その数字の箇所が略図中の数字と同一であることを示す。 そして特記がない限り、画像は進行方向、つまりある地点より峠方面を写している。
これらをふまえた上で、これから先の画像を見ていただければ、より右左口峠を知ることが出来るのではないかと粗末ながら思うところである。
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(1)上九一色村側旧道分岐点まっすぐ進むのは国道358号線。右に上っていく道が県道。
分岐箇所に立つ標識類ここは通行止めでもなんだろうと、いつも落石注意であるような気がしてならない。
以上気象時には通行止めといってもそんなときに通行はないだろう。
しばらくは家があるのだが500mも進むと家はなくなり舗装路なのだがへたってくる。
(2)落ちそうな道路路肩にガードレールが並べてある。ヒビが入り落ちる寸前。
しかし復旧延長という杭があったので、はやいうちに補修されるだろう。
(2)地点より振り替える/そしてこれから行く道路を見る谷底に上九一色村の町が見える。分岐してから一方的に上りかなり高度を上げる。
ついには道幅が完全1車線となってしまう。まだ舗装路。
何度目かに来たときにはここで崩落していてあきらめて引き返したこともある。
(3)地点 通行止めゲート最初のヘアピンの頭が通行止めゲート箇所。
とはいえ、こんなところで返されても困ると思うが、、、。
(3)地点より先ヘアピンをして高度を稼ぐまだ道路は舗装されていてガードレールもある。また法面も処置されている。
(4)割合新しめの落石防護ネット/舗装路なのだが路肩では雨に彫られガリーとなる (5)ついには舗装が途切れダートとなる。しかし良く踏み固められたフラットダートだ。始めてきたときにはこの先は砂利が
ほとんど流された想像を絶する状況であった。
これは尋常でないと言うことを感じたが、一向に転回できない。
けつを崖に出して命からがら引き返したのだ。
(6)崩落している道路にはあまり影響ない。余裕も多い。この付近は道幅自体が広いのだ。
路肩も無くなった。ただある幅の平面が広がるだけである。画像左手は深い谷底。
(7)またまた崩落箇所。今度は100m近くに渡って法面が滑っているようだ。長い区間がロープと柵で区切られていた。ここはかなり道が浸食されている。
↓帰りがけに撮った画像。ターセルでギリギリである。ちなみに画像左手は深い谷底。
あまり洒落にならない図なのだ。
様子をうかがったところ落ち着いていたので写真にとって見た。
あまり、というかかなり気分は良くない(笑)。
法面が吹き付けられている箇所も多いのだ。
(7)地点先から見れる風景 また道の雰囲気が変わってくる。ちょうど日陰になるのと、
法面が処理されていないこと、幅員が狭いことが原因だろう。
(8)付近にはサビだらけの看板。えっ昭和52年???オレ生まれて無くない!?
(9)さすがに元旦。真冬だけあって荒涼としている/またまた崩落箇所ここも結構スリルだ。
↓帰りがけに撮った画像。ここもターセルでギリギリである。
ちなみに画像左手は深い谷底。
あまり洒落にならない図なのだ。
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