国道60号 | ||||
起点 | 東京府 | |||
終点 | 第十四師団 | |||
延長 | - km | |||
制定日 | 明治44年3月4日 | |||
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改正履歴 | なし | |||
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全体図 | Download : Meiji-R44.trk (トラックファイル) | |||
宇都宮までは当時の明治国道6号と重複し,宇都宮から第14師団が位置した国本村までが国道60号の単独区間となる. 第14師団についての経緯を辿ると,元々は日露戦争中の明治38年に新師団増設で誕生したもので,発足当時は小倉に編成された. 日露戦争後には小倉から旅順へと日本国外に配置変換された. 『栃木県史』では,この第14師団の宇都宮への移転の経緯について調査がなされているものの,最終的には 「師団が宇都宮に選ばれたことについては,その間どのような経緯があったかははっきりしていない」(栃木県史通史編6) と,その決定までの第一次史料は見出されていないものとなっている. 明治40年になって陸軍省より「陸軍常備団警備表」の改正によって第14師団が正式に宇都宮に配置されることが告示された.それによれば第14師団は,その組織下に師団司令部(下記@地点)を筆頭として歩兵第28旅団司令部,歩兵第59連隊(下記A地点),歩兵第66連隊(下記B地点),輜重兵第14大隊(下記C地点),騎兵第18連隊(下記D地点),野砲兵第20連隊(下記E地点),から構成されるものとなっていた. 現在,師団司令部は国立栃木病院へと転用され,歩兵第59連隊(下記A地点)と歩兵第66連隊(下記B地点)の一部は宇都宮中央女子高校となっている.地点CおよびDの地点は現在では作新学院高校があり,Eの野砲兵第20連隊は宇都宮短大附属高校の場所にあった. 国道60号としての性格上,これらのなかでは「師団司令部」を連絡する道が国道であったと考えられ,明治42年の地図を俯瞰するならば,候補としては二つ挙げられる. Aルートは旧来の日光道でもあり,市街区域と師団司令部までを,ほぼ直線的につなぐものとなる.また,上記の6つの組織施設に対しても連絡する上では好都合な道路となる.一方のBルートは,師団司令部と野砲兵第20連隊(地点E)とを連絡するために第14師団設置後に新たに造られた道路である.現在,このBルートは国道119号の一部となっている. 今の段階では,このAルートもしくはBルートのどちらが国道であったのか決定できる資料は見出せていないが,現状の判断だけならば,各組織を縦横につなぐAルートが国道指定を受けたのではないかと考えている. 宇都宮は,師団設置によって軍都・宇都宮として終戦まで発展を遂げていくことになる.太平洋戦時下においては中島飛行機株式会社を誘致し,関連軍事工場が多く建設された. そして昭和20(1945)年7月12日に宇都宮空襲の惨事をむかえることになる.アメルカの空襲に際して発行された「目標情報票」には,中島飛行機(株)を筆頭にして攻撃目標と重要性が記され,その末尾に「第14師団司令部」が加わっていた. 【参考・出典】 栃木県史(通史編6近現代1) 栃木県史編纂委員会,栃木県,1982 うつのみやの空襲 宇都宮市教育委員会,宇都宮市教育委員会,2001 米軍資料集 (うつのみやの空襲』別冊(2)) 宇都宮市教育委員会,宇都宮市教育委員会,2001 写真でつづる宇都宮百年 記念出版編集委員会,宇都宮市制100周年記念事業実行委員会,1996 [2007.05.02作成] |